庚辛大飢饉 1670~1671年の救済と回復過程
庚辛大飢饉は、1670~1671年に朝鮮全域で凶作と疫病が重なった災害である。朝廷は食糧の支給と負担の軽減、種子の支援で対応したが、豊作の記録だけで生活の回復を断定することはできない。
庚辛大飢饉は、顕宗の在位中の1670~1671年に凶作と疫病が重なった災害である。
1671年、朝廷は六つの道の田税を現地の救済に使うよう指示した。
粥の支給、乾糧の支給、穀物の販売では、救済の方式と利用条件が異なった。
済州への綿布と大麦種子の支援は、生活の維持と次の耕作の再開の両方を目指した。
1672年にも救済は続いており、戸籍人口の減少は死者数と区別する必要がある。
庚辛大飢饉は、1670~1671年に朝鮮で凶作と伝染病が重なった災害である。顕宗の時代、朝廷は賑恤と負担軽減で対応した。種子の支援は農業の再開を支えた。完全な回復というより、救援の成果と限界を示す事例として記憶されている。
国史編纂委員会の実録と『新編韓国史』を確認した時点は2026年10月である。
名称と発生時期
庚辛という名称は、庚戌年と辛亥年から一文字ずつ取ったものである。庚戌年は顕宗11年の1670年である。辛亥年は顕宗12年の1671年に当たる。したがって、庚辛年という一年に起きた飢饉という意味ではない。
凶作は、農作物の収穫が平年より少ない状態を指す。飢饉は、食べ物が不足して人々の生存が脅かされる状態である。この事件では凶作に伝染病まで重なった。『顕宗実録』の行状は、被害の範囲を八道と記している。
庚辛大飢饉の原因と生活基盤の崩壊
原因は、農業災害と疾病が重なったことに求めるべきである。『顕宗実録』の行状は、1670年夏の干ばつを記録している。同年の陰暦5月と7月には霜が降りた。1671年には麦の不作により食糧難が続いた。
『新編韓国史』は、こうした災害を小氷期と結び付けて解釈している。小氷期は、長期的な気候の寒冷化傾向を指す言葉である。干ばつ・洪水・異常低温は、当時の農業を脅かした背景であった。ただし、特定の火山や太陽活動を直接の原因と断定してはいない。
被害は収穫量の減少だけにとどまらなかった。宋時烈の上疏は、貧しい農家が耕作を中断したことを指摘している。天候が好転しても、農業を営む人々の力が足りなかったという説明である。食糧難が次の耕作を難しくする悪循環につながったことになる。
1670~1672年の対応年表
救援は飢饉が深刻化する中で始まり、翌年まで続いた。下表の月日は、実録に記された陰暦である。支援の継続期間を理解するには、1672年の措置も含める必要がある。
時期 | 出来事と措置 | 記録
1670年夏 | 干ばつと霜による農業被害が発生 | 『顕宗実録』の行状
1670年陰暦8月 | 江華の米をソウルに運んで販売 | 『顕宗実録』の行状
1670年陰暦10月 | 戸曹・賑恤庁・漢城府に穀物と冬服の支給を命令 | 『顕宗実録』の行状
1671年陰暦正月 | 六道の田税を現地の賑恤に使うよう指示 | 『顕宗実録』の行状
1671年 | ソウルと地方で救援を実施 | 『顕宗実録』の行状
1671年陰暦9月12日 | 鄭致和が済州の負担軽減と綿布・麦の種子の支援を報告 | 『顕宗改修実録』巻24第3記事
1671年陰暦11月30日 | 宋時烈が農家の困難と賑恤の不正を指摘 | 『顕宗改修実録』巻25第2記事
1672年陰暦正月 | 大同米の負担軽減と賑恤方法の議論が継続 | 『顕宗実録』の行状
田税を現地に残した転換点
対応の転換点は、中央に送る税穀を現地の救援に回した措置である。田税は土地に課していた税である。穀物で徴収した税を運ぶことも、民にとって負担であった。朝廷は、その穀物の使い先を被災地域に変えた。
1671年陰暦正月の措置は、六道の田税を対象とした。三南は忠清・全羅・慶尚を指す。これに当時の原襄道と黄海道・京畿道が含まれた。行状は、これを春に飢えた民の救済に使うようにしたと伝えている。
田税の現地使用は、税の全額免除とは区別すべきである。徴収した穀物の使い先を変える措置だからである。税を減らしたり納付を延期したりする措置は、別途実施された。救援財源の確保と負担軽減は、それぞれ異なる政策手段であった。
庚辛大飢饉における賑恤方法の違い
賑恤は、飢えた人々を救済する措置を意味する。当時は、粥の支給と乾糧の支給、穀物の販売が併用された。乾糧は、粥に調理していない乾いた食糧である。次の表の機能区分は、記録された支給方法を説明したものである。
方法 | 記録に見られる形態 | 機能と区別される点
粥の支給 | 救援の場で粥を炊いて提供 | すぐに食べられる食事を提供
乾糧の支給 | 乾いた食糧を分配 | 食糧を受け取り、別途消費する方法
穀物の販売 | 官庁が確保した穀物を市場に供給 | 購入が必要なため、無償配給とは異なる
衣服の支給 | 冬服や綿布を提供 | 食糧以外の生活上の必要を支援
負担軽減 | 税・貢物・労役の減免または納付延期 | 世帯から出ていく資源と労働の負担を緩和
行状は、ソウルでの粥の支給と士大夫による乾糧の受領を区別している。したがって、分配方法には身分による違いもあった。1672年の議論では、物乞いをしながらさまよう人々の救済が争点であった。乾糧の支給だけでは、あらゆる境遇に対応できなかったのである。
済州への支援と次の耕作の再開
済州への支援には、当面の生活維持と種まきの支援がともに含まれていた。1671年陰暦9月12日の記事に、鄭致和の報告が残されている。報告には、貢物・労役の軽減と綿布・麦の種子の支援が登場する。これは食糧支給にとどまらない対応であった。
綿布は衣料を調達するために使われる物資である。麦の種子は、次の耕作の出発点に当たる。負担軽減は、世帯が差し出すべき物資や労働を減らす措置であった。それぞれが、生活維持と生産再開の異なる部分を支えた。
ただし、支援の決定と収穫の回復は同じ事実ではない。この記事は、済州全体の回復の程度を示す統計ではない。種子がどれほどすべての農家に届いたかも示していない。生産回復を支援したという範囲で、その意味を読み取るべきである。
豊作の後も救援が続いた理由
豊作だったという記録だけで、すべての世帯が回復したことを意味するわけではない。行状は、1671年には八道が豊作だったと評価している。一方、宋時烈は、その年に貧しい農家が耕作を中断したことを指摘した。二つの記録は、収穫状況と世帯ごとの生活を異なる形で映し出している。
1671年陰暦11月30日の上疏は、労働力不足を原因に挙げた。農業を営めなかった世帯は、収穫の恩恵を受けにくかった。宋時烈は、こうした世帯には引き続き救援が必要だと主張した。これは、豊作と飢えが同時に存在し得ることを示している。
行状には、1672年陰暦正月にも賑恤の議論が出てくる。同じ月には、大同米の負担を減らす措置も記録された。したがって、事件の名称が指す期間と救援の終了時点は異なる。1671年を、被害を完全に克服した年と断定するのは難しい。
支援の決定と実際に届くことの違い
支援命令が存在するだけで、救援が適切に届いたと判断することはできない。宋時烈は、一部の現場で救援対象の人数を水増ししたと批判した。それによると、担当者たちは余った米を私物化した。中央の決定の遅さも、救援を遅らせた問題として指摘された。
この上疏からは、行政の複数の段階を分けて読み取ることができる。朝廷の承認と現場での分配は、別々の過程である。受領者の生活改善は、その後に確認すべき結果である。以下の区分は、上疏を基に整理した解釈である。
確認段階 | 記録から読み取れる内容 | 別途確認すべき内容
政策決定 | 救援を命じたり物資を割り当てたりする | 実際の執行時期
現場での分配 | 救援対象の人数と支給状況を報告する | 報告の正確さと物資の欠落
生活の回復 | 耕作・食糧事情についての評価が残る | 地域別・世帯別の回復の違い
支給という言葉も、常に無償支援を意味するわけではない。行状には、乾糧の受領分の一部について徴収を免除する措置が出てくる。対象は、受領者が死亡し、土地もない場合であった。したがって、支給方法と返済条件は別々に確認すべきである。
記録と解釈
この事件は、実録の記述と後世の研究を区別して読むべきである。行状は、王の生涯と業績をまとめる文章である。上疏は、臣下が問題を提起し、政策を建議する文書である。どちらの記録も、作成目的を考慮する必要がある。
記録が語る対応と批判
行状は、顕宗の救援措置と成果を強調している。宋時烈の上疏は、救援の不正と遅延を問題視している。上疏の批判を、全国すべての現場の実態にまで広げることはできない。逆に、行状の肯定的な評価だけで被害からの回復を断定してもならない。
研究が説明する社会的影響
『新編韓国史』は、災害を人口と軍役の問題に結び付けている。軍役は、軍務やそれを支える負担を意味する。大飢饉は、従来の軍役の規模を維持しにくくなる背景となった。これを機に、負担の構造を変えようという議論が勢いを得たとの解釈である。
戸籍の数値にも行政目的が影響したという説明がある。軍役の対象者を探し出す調査の徹底度が変わったためである。したがって、戸籍に記載された人口と実際の総人口は区別すべきである。当該研究の解釈を、あらゆる人口推計における合意と見なすことはできない。
死亡者数はどこまで確認できるか
戸籍人口の減少分を、そのまま死亡者数として計算することはできない。『国史館論叢』の人口変動表は、異なる記録を並べて示している。同じ年でも、資料ごとの登録人口は一致しない。以下は、そのうち『朝鮮王朝実録』系統の数値である。
区分 | 登録人口 | 数値の意味
1669年 | 5,164,524人 | 比較開始時点の戸籍人口
1672年 | 4,695,611人 | 比較終了時点の戸籍人口
1669~1672年の減少分 | 468,913人 | 登録人口の差であり、死亡者数の確定値ではない
この差には、死亡のほかに移動や調査・登録の条件も関わり得る。全国の正確な死亡者数は、この表だけでは確定できない。実際の人口の回復時点も、研究方法に応じた検討が必要である。数値を引用するときは、資料名と比較年を併せて明示すべきである。
今日の災害対応史における意味
この事例は、食糧供給と生産回復を分けて分析する必要性を示している。穀物があっても、農業を再開できなかった世帯があった。救援を決定しても、届ける過程で漏れや遅延が生じた。これらは、当時の記録で確認できる、それぞれ異なる問題である。
済州への種子支援は、次の生産に向けた措置であった。田税の現地使用は、救援財源を確保する方法であった。宋時烈の批判は、執行過程を検証する必要性を明らかにしている。現代の制度の直接の起源と断定せずに比較できる点である。
よくある質問
庚辛大飢饉はいつ発生したのか?
顕宗11~12年に当たる1670~1671年に発生した。名称は庚戌年と辛亥年から取られた。救援は1672年にも続いた。
被害は特定の地域に限られたのか?
『顕宗実録』の行状は、八道で飢饉が起きたと記録している。ソウルと地方の救援がともに登場する。済州にも別途、物資の支援が実施された。
顕宗一人が救援を担ったのか?
国王の命令を複数の機関と地方官が執行した。記録には戸曹・賑恤庁・漢城府などが出てくる。実際の成果は、現場の運営にも左右された。
粥の支給と穀物の販売は同じ賑恤なのか?
どちらも食糧難への対応に使われたが、供給方法は異なる。粥の支給は、調理した食事を提供する方法である。穀物の販売は購入を前提とする。
麦の種子を支給した理由は何か?
麦の種子は、種まきを助けるための物資であった。当面の食糧支援とは機能が異なる。支給の決定だけでは、実際の収穫の回復までは確認できない。
1671年が豊作なら、飢饉は終わったのか?
豊作の記録だけで生活の回復を断定することはできない。宋時烈は、農業を営めなかった貧民の困難を指摘した。翌年も賑恤と負担軽減が続いた。
乙丙大飢饉とはどう違うのか?
乙丙大飢饉は、粛宗の時代の別の災害である。『国史館論叢』は、1695~1699年を関連する被害の時期として扱っている。二つの事件の人口減少の数値を混同してはならない。
死亡者が468,913人という意味なのか?
その数値は、1669~1672年の登録人口の減少分である。死亡者だけを集計した数字ではない。正確な死亡者数を意味する数値として引用してはならない。